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執筆者の写真若王子倶楽部 左右

第1回 公募展 講評|茶人 中山福太朗 / 一茶庵宗家嫡承・煎茶家 佃梓央



ティー・エレメント展 所感  

茶人 中山福太朗


ティー・エレメントとは何なのか。悩ましいことです。茶碗で言うなら、手取りや口作りの厚み・角度、高台の造形など、様々な評価ポイントがあり、また好き嫌いも様々です。

しかし、どのような評価軸にも共通するのは、抗い難い『いいな、使いたいな!』という思い、それに尽きるのではないでしょうか。


茶の道具には、使い手がいるからです。そう、これはとても個人的なものです。今回、作品を選択する作業は、なぜ自分はこれをいいなと思ったのかを、ひとつひとつ言葉にしてゆくプロセスでした。


結果は、大きな意味での茶の湯の基準によったものではないでしょう。私は大きな基準の一部かも知れませんが、その主体ではないからです。ゆえに、私を通って今現れた、私の茶の湯の基準です。それしかないのだと思います。


Who are you?と問うことは、そのままWho am I?だからです。

何かしらの心のざわめき、それを正直かつ丁寧に差し出し、受け取ること。

それが、今の私が思う茶の湯です。



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ティー・エレメント展の審査を終えて

一茶庵宗家嫡承・煎茶家 佃梓央


茶の湯でも、煎茶でも、中国茶でも、「喫茶」を取り囲む人たちの多くは、今、多かれ少なかれ同じ問いの中にいるのではないだろうか。

それは「古典(技法や素材を含め)と現代とをどう繋ぐか」という問いである。今回応募された作品を拝見していると、大多数の作品もやはりこの問いに悩む中から生まれて来たように見える。ところが、「現代に工芸を持ち込むこと」について悩んだと思える作品であればあるほど「〇〇ホテルのエントランスに置いてそうだな」とか「××さん建築のあの建物のあの部屋に置いてそうだな」とか「△△の空間にはまりそうだな」とかといったように見えてしまう。


今回の審査で、おそらく私のこの感覚と同じなのだろうと思って笑ってしまったのだけれど、「◎×の店に並んでいそう」という別の審査員の言葉が飛んだ。いずれにせよ、現代の既存の空間に収まりすぎてしまうその作品の姿が安易に想像できてしまうのだ。


また、「古典」を使うことを意識したであろう作品は、例えば「桜」例えば「月」例えば「楓」・・・、といったよく用いられてきた図を安易に使ってしまい、ただただステレオタイプ化された「日本的なるもの」を生み、ステレオタイプ化された日本の伝統に自己陶酔しているように思えてしまう。桜や月や楓を使うべきではない、という意味ではない。


今まで使われ続けられている意味の深みを学び、それらが使われてきた長い歴史の中に自分が加わるのだ、という覚悟がいる。図だけでなく形に関しても同様だ。茶の湯ものなら天目茶碗、朝鮮系の茶碗、楽茶碗系、国焼系、民芸系、あるいは、煎茶ものなら中国明代の民窯系の茶碗、清代の官窯系の造形を模した茶碗、すべて写し古された形である。それらを写すなら、写してきた歴史に新たな一頁を加えるための何かがいる。


そんなことを思いながら今回多くの作品を拝見する中で、楽しませていただいた作品が何点もあった。 さて、煎茶家である私、つまり、「喫茶」を提供する側であり、「喫茶」のための道具・工芸作品を使う側である人間は、その道具・その作品を一点のみで使うことはあり得ない。掛け軸・絵画、そして様々な種類の工芸品を組み合わせてその道具・その作品を使うのだ。


組み合わせていく作業のことを「取り合わせ」というわけだが、その「取り合わせ」こそが「喫茶」を提供する側の命である。建築、内装、その中に掛け軸(絵画、書)、茶道具類、それらすべてを取り合わせ、誰も経験したことのない空間を設え、誰もしたことのない会話を弾ませ、その高揚感をさらに高揚させるための茶を提供する人、しかもその空間で起きることに関して、古典と通じさせることのできる人、これが茶道具を使う人である。

茶道具を作る方々に、茶道具を使う人とはそういう人であることを意識していただきたいと思うのだ。


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